2022年8月15日月曜日

フレッチャー「アインシュタインの影」を読んだ

セス・フレッチャー「アインシュタインの影」2020年、三省堂
を読んだ。

Scientific American誌特集担当編集長のフレッチャー氏によるイベントホライズンテレスコープでのブラックホールシャドウの観測についての本である。本書は専門家が科学を解説した一般本ではない。本書の内容はジャーナリストがシェパード・ドールマンとその周辺の人々を長期取材したものに一般書のブラックホールの解説を組み合わせた読み物である。科学に関する記述は一見良く書かれているように見えるが、よく読むと一般書でよく見る表現にあふれている。著者は専門的な理解をしているわけではないことは明らかである。ブラックホールの解説はScientific American誌などの一般向けの雑誌のサイエンスライターによる解説らしい文章であふれている。専門家が書く一般書や教科書で学んだことがあれば、学ぶことはあまりない。原書はSeth Fletcher「Einstein's Shadow  A black hole, a band of astronomers, and the Quest to see the unseeable」 で翻訳者はニューズウィーク日本版の編集顧問の沢田博、日本語版監修は天文学者の渡部潤一である。翻訳は天文分野はあまり違和感はないが、超弦理論のブラックホール関係の翻訳はかなりひどい。

こまかい感想を箇条書きしてみる。
・ホーキングが異常に神格化されているが、これは著者のかなり偏った見方であり、著者の記述の客観性を疑うには十分である。
・観測技術には軍事技術に転用可能なものも多くあるらしい。例えば、干渉法では原子時計が重要らしいが、これをアメリカ国内に持ち出すには許可が必要とのこと。関連して著者が友好的でない他国をバカにする記述もあり、読んでいて気分が悪くなる。
・科学的な記述は怪しいものもかなり散見する。ブラックホールに落下する物質の角運動量の記述からは著者の力学を理解しているかどうか疑いたくなる。一般相対論的な記述は一般書で見慣れた正しい記述が多く、よく書けている。しかし、わずかに怪しい箇所もある。超弦理論の研究者が行っているブラックホールの研究についての記述は壊滅的である。
・著者の記述を信頼する必要はないが、著者が記述するドールマンはかなりひどい人物である。多くの先人の技術を受け継ぎ、多くの人が作った複数の望遠鏡を使い、多くの税金を使っているにもかかわらず、これらのすべては自分の所有物であると錯覚し、最初から自分一人だけで研究を行ったと錯覚し、成果が奪いそうな理論家の協力を拒絶しようとし、開発した観測装置の共同利用も拒絶しようとして、研究を大幅に遅らせている。また、科学的研究を自分の名前を後世に残す手段だと思っているようだ。著者の記述を無条件に信じる理由はないが、この本はこれまで読んできた本の中でも最低の部類の本だと思う。
・イベントホライズンテレスコープの上層部は観測前に誰がノーベル賞を取るべきかの駆け引きでおおもめし、観測のための組織作りに支障が出まくったらしい。イベントホライズンテレスコープの上層部はサイエンスと関係のない私利私欲の駆け引きで忙しい最中に、実際の現場での働く若手の多くは2,3年後にはサイエンスの業界から離れざるを得ないかもしれない不安定な状況でサイエンスの議論をしていたとのことだ。観測計画が滞っている理由が上層部の私利私欲のもめごとだと知ったら健康な精神を保てられないだろう。
・重力波の観測のニュースについては触れておらず、非常に不公平であると感じた。著者のジャーナリズムも疑わしい。著者は科学的な事実よりもこの本で儲けることを優先しているのであろう。

もし私がこの本を高校の時に読めば、私は物理系学科に入ることも物理系科目に関わろうとも思わなかっただろう。私は最近この本に出合ったことを非常に幸運に思う。